通貨はタダなのか

 マシナリさんの再分配の高コストな構造を拝読しながら、以前読んだ本から記録として抜粋します。

 貨幣という謎―金(きん)と日銀券とビットコイン (NHK出版新書 435)著者 西部 忠

序  章 貨幣という謎――貨幣がわかれば経済がわかる
第一章 お金は「もの」なのか「こと」なのか――貨幣と市場を再考する
第二章 「観念の自己実現」としての貨幣――日銀券とビットコインは何が違うのか第三章 貨幣につきまとう病――バブルとお金の関係
第四章 なぜ資本主義は不安定になるのか――ハイパーインフレと投機を考える
終  章 資本主義の危機と貨幣の「質」――どのお金が選ばれ、生き残るのか

 著者は通貨(貨幣)を「情報の伝達」と捉えています。
 お金の宗教的・心理的な機能(P28)
  

お金には、社会的責務を返済するという「祓い」の役割があるわけです。

 また、 

「互酬」わかりやすく言えば「相互扶助」あるいは「結(ゆい)」を含んでいます。
 「市場」の世界では世間への贖罪を感じることはなく、むしろ腐れきった人間関係を交換関係として断ち切るため「市場」の世界の拡大によって「互酬」の世界を相対的に縮小している時代である。

 とも設定しています。

 4 貨幣生成の原理 貨幣は言葉と同じ?(P65)

 「欲望の二重の一致」のための「何か」が貨幣です。
 次なる「交換」を予感させる「販売可能性」があるもの「貨幣」への進化から「貨幣とは、貨幣として使われるから貨幣である」という循環関係の形成が「貨幣の正体」なのです。

 2「裸の王様」からお金を考える(P103)

 日本銀行券は不換紙幣ですから、なんらの有価物にも兌換されません。また、日本銀行券は財務省印刷局で印刷されますが、一万円札の製造費用は20円足らずですから、その実質価値は殆ど無いに等しいと言えるでしょう。このような物としてはわずかの価値しか体現しない不換紙幣がなぜ一万円として龍杖するのでしょう。

 これを「観念の自己実現」=みんなが思うこと。と、しています。

 民衆「何も見えない」「あっ、あの王様ね裸だ」。
 
 でも王様は行進を止めません。何故でしょう。

 王様は、後進を続けることで「王権」を守ったということです。

 慣習の自己実現(P113)

 「日本銀行法」には、「日本銀行が発行する銀行券は法貨として無制限に通用する」と書かれています。日本銀行券は国の法律が通用力を保証したれっきとした「法貨」です。それは国家権力の後ろ盾を持つ王様のように偉い存在と言えます。日本国内で一万円を差し出され、それを貨幣でないただの紙切れだから受け取らないというならば、法律違反で罰せられるかもしれません。では、法的強制力があるから人は紙幣を受け取るのでしょうか。

 大臣や民衆が「王様は裸だ」と思っても国に出さなかったのは、単に王様の権力を恐れたからではなく、そうすることが自分にとっても得だったからです。これと同じく
日本銀行券が現実に流通しているならば、たとえそれ自身に何の価値も無く、また、それを日本銀行の窓口に持っていっても金貨などのそれ自体に価値のある物(本位貨幣)に交換して貰えないにしても、日本銀行券を受け取ることの利益があるはずです。

 「慣習の自己実現」=利益とは社会の安定的な秩序を求めることである。


 予想の自己実現(P117) 

 受け取った一万円札がたとえ紙切れでも、未来において次の人がそれを一万円として受け取ってくれると予想できるならば、自分がそれを受け取るのは理にかなっている。たとえそれがババでも次の人に渡せるならば、何の損にもならないからだ。もし、次の人も自分と同じように合理的に考えるならば、やはり日本銀行券を受け取ってもよいと考えるだろう。そしてまた、次の次の人も、次の次の次の人も同じように考える筈だ。これが無限に続くならば、みんなが受け取ってもよいと考えるだろう。だから、自分も受け取ってよい。

 
「観念の自己実現」「慣習の自己実現」「予想の自己実現」により、「信用創造」により生み出された日本銀行券は債権と債務の二面性を持ちながら連続(永続)性を求められるということになります。政府と日銀による最初の「信用創造」による「日銀券発行」により、財源としての増税が必要が無いという考えを持つ方達がいます。マシナリさんが指摘する「再分配の高コストな構造」は、信用創造の永続性を担保するためには、公的セクターそのものが利用することそしてそれをまた民間セクターへ送り返す事にコストはかかるのは、当然と考えるのです。
 とても自然な流れだと思います。

5 貨幣の「情報化」は何を意味するのか(P148)
 貨幣の二つの流れ:情報化と信用貨幣化
 
 貨幣を歴史的な貨幣(素材)から電子化という「脱物化」のなかで、貨幣も本位貨幣等から「信用貨幣化」へと変化した。その「信用貨幣」とは

 つまり、金や金貨のように素材そのものが価値を持つ「本位貨幣」から、負債の存在を証明し、その返済を約束した「信用貨幣」へと変化したのです。しかも、債務証書である貨幣が兌換性から不換制へと移行したことで、負債が返済義務のない有名無実のものになりました。

 「信用創造」で生み出された「日本銀行券(負債)」は、永続性を得たことで「返済義務」が無くなったわけではないが、国家が消滅しない限り「返済義務が有名無実になった」。この流れで「永久国債」とかが出てくるわけです。統合政府理論で債権債務が対消滅もしていなから、B/Sには計上され続けることにはなります。それが「バランスシート拡大論」や「通貨(国債膨張政策)」へと繋がっていくのです。でもリフレ派は、国債を発行すると民間の投資資金を奪うことで「民間投資がクラウディングアウト」するという飯田泰之の理論に乗っかっていましたから、国債=通貨を膨張させる気が無かったと言うことになるのです。リフレ政策とはなかなか難しいものですね。


 信用貨幣と信用創造(P149)

 「現金通貨」である日本銀行券と日本国政府が発行する補助通貨のほかに別の通貨が存在します。それは、

 もう一つは、私たちが銀行の口座に持っている残高、つまり「預金通貨」です。預金通貨は現金通貨のような紙や金属という形ょ取らず、通帳の上に印刷されたり、コンピュータ上に記録されたりする単なる数字にすぎません。預金通貨は預金者が民間銀行に預けている預金のうち、要求すれば直ちに払い戻される普通預金当座預金などです。預金通貨をこれらの口座に預金すれば預金通貨になり、預金通貨を払い出せば現金通貨に成ります。

 国債残高と個人の預貯金残高を比較して、「クニノシャッキンガー」というのがありますが、最初の信用創造で生み出されるマネー(現金通貨)と個人の預貯金は同じ性質のものではありません。銀行から払出して「預金通貨」から「現金通貨」への交換量を指し示すものとなります。

その一方で、民間銀行はこうした要求払預金の一部を支払いのために準備しながら、企業や個人への貸付を行うことによって、「ハイパワードマネー」(現金と準備預金の合計)の何倍もの預金通貨を創り出すこともできます。これが「信用創造」です。

 国の借金より「民間(企業・個人)の借金」である「信用創造」がどの程度の規模なのかということを見るべきでしょう。

 ある貨幣がなくなつても必ず他の貨幣が現れる(P209)

 ハイパーインフレーションは、貨幣がある種の仮想現実であることを私たちに教えてくれます。しかし、それにより、私たちは夢から覚めてうつつに戻るのではなく、一つの夢うつつから別の夢うつつに移行するにすぎません。バブルもまたある種の仮想現実ですが、たとえそれが弾けても、私たちは繰り返し別の仮想現実の中にいることを知るべきです。