津波被災の記録64

 連休中だというのに、どこにも行かずに補助金の別紙1と別紙2とプレゼン資料を校正しながら、息抜きに見たはてぶで、

コーヒーと搾取とブロガー: ニュースの社会科学的な裏側 www.anlyznews.com

グローバル化した市場の問題を無視したフェアトレード批判を始めると、大変なことになるかもしれない(メモ) - キリンが逆立ちしたピアス d:id:font-da

アフリカのコーヒー農場労働者の生活改善に必要なこと: ニュースの社会科学的な裏側 www.anlyznews.com

フェアトレードにある偽善どころではない問題: ニュースの社会科学的な裏側 www.anlyznews.com

“適正価格”は勝ち取るもの: ニュースの社会科学的な裏側 www.anlyznews.com

というものが出てまして、外部経済のことで被災地以外の方達は熱心だなあと、眺めながら下記の資料を読みつつ

東北地域における産業復興への提案〜新時代の日本経済を先導する新しい産業集積地の形成を:東日本大震災からの復旧・復興に向けて 1 (野村総合研究所) www3.keizaireport.com

産業集積の現状と課題 (商工総合研究所) www3.keizaireport.com

 グループ補助金は、産業集積が、旧来型の産業構造を如何に再編、淘汰することを前提として、存続する企業体を再構築することになるのだけど、国内の中小零細が上記でみられるような指摘を改善できないのは、未だに家業経営(同族会社)から脱しえないと言うことにつきる。
 ブラジルのコーヒー栽培の大規模化が、部族間連携を含めたものが希薄に成り得たから移行できたし、アフリカは部族単位から抜け出ていたないだけなんだろう。
 買取価格を問題にするのは、EUでやっているような販売管理手法を念頭に置いてだろう。
 生産者価格を増やすために、中間業者を徹底して排除するけれど、商社・ブローカーと大手スーパーも十二分に利益を確保したうえで、買取を行う。国内に於いても、農協批判はそういう仕組みをイオン等の流通系と三菱商事等の商社他がそういうビジネスモデルを国内に持ち込みたいということで規制緩和しろ。なわけだけど、中間層は更にガタガタになることが前提なビジネスだよね。ネオリベほリベサヨな方達はまあ同じことを結構やっているわけで、当人たちにどれだけ自覚があるかだけなんだろう。
 

(4) グループにおける役割
(5) グループとして共同して行う復興事業への各グループ構成員の参画内容

 多くの申請者のうち「重層構造型」は上場企業と国・県・市町村との事業参画が出来上がっていることが大半なので、そのテーマをぶち込めは、それほど苦にならないし、何より人的資源(本社)の優秀な人材と優越的地位によって、構成員が異論をはさめないメリットは大きい。
 中小零細企業は代表者が同格または相手を下に見る傾向から脱しえない以上、混乱が続くことになる。上記の「適正価格」は勝ち取るもの。の通りこの補助金岩手県の担当者曰く「勝ち取る補助金」と宣言されるわけです。
 これからの補助金中小零細企業にとっては、「できん者はできんままで結構」ということで、産業集積の意味も分からないような者達を助けません。実際、岩手県からは「この程度の被災地を助けて岩手県に何のメリットがあるの」と復旧・復興を断念する死亡宣告を頂戴いたしました。岩手県職員の皆様の行政効率達成のために中小零細業者の削減にお励みなっている姿に胸が熱くなりました。
 そんなわけで、内部経済ですらそんな状況ですので、福島県の企業立地の1社200億の補助金にも大企業の方達が申請なさっているようで、福島県もお喜びでしょう。
 産業効率を高めることだけを言えば、業者を淘汰するか、業者が集積して、中企業になるか、行政の事務量を削減するか、行政自体を縮小させるかになります。いま被災地復旧・復興が進まないのは、そういう部分から行政自体が身を大分引いているのも、中小零細業者の自己努力が足りないのに税金を与えるなんてそんな非効率なことはしたくないからです。
 でも被災地の現実は「俺様被災者」になってしまって、申請すれば何の制約もなく貰えるような錯覚に陥っていますし、既存の組織(協同組合、商店街、外郭団体等)を喪失する危機すらも認識できていないことにあります。策定に際しては、「古い公共」というものを今一度考え直してもらいたいものです。

(追記)
 それにしても「効率性」という甘いささやきは人や組織を振り回すのだろう。
 「グループ補助金」の「パレート最適」要求と「補償原理」としての他の少額の補助金との組み合わせ、グループ構成員を形成する際の「コースの定理」を組み合わせる恐ろしさというか周到さに、被災地を含め今後の「無駄を無くせば良くなる」という宣告を受ける者達の困難さが、優秀な若年世代をどう取り込むかということと教育・訓練との兼ね合いをどう現場に落とし込めるかなのだろう。

希望の国エクソダス村上龍
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあれます。だが希望だけがない」

『希望のつくり方』東京大学社会科学研究所教授 玄田有史
「継続」を求める幸福に対し、希望は「変化」と密接な関係があります。

『絶望の国の幸福な若者たち』古市憲寿 
 そのうち購入する予定ではあるが、希望(変化)を叩き、絶望(継続)を幸福と見る視点は、デフレを含めた政治の混迷を求める国民の姿勢はという処までは達していないように感じる。
 恵まれた環境から俯瞰する革新の感覚は、昭和という時代を憎悪する作者にとってある意味グレートリセットを望むこの世代の気分を掬い取ろうとしていることが感じられるけど、ただそれだけ。その後の展望はないように感じる。絶望という現状の追認と肯定によって恵まれた彼の環境とリベラルな方達の現況を変革させない(あくまで革新とは下々に対してのみ行う啓蒙という詭弁)強い部分がリベサヨの上の世代に気に入られたのだろう。

 自分達のいま置かれた環境はそうのんびりできるものではない。
 「復旧」は「幸福(3.11以前に戻ること)」としている被災地の感覚は、絶望なのだろう。その後の緩やかな衰退を改善しない愚者の行為として、嘲られる事かもしれない。
 その後「復興」が「希望(革新(3.11以前とは違う社会構造へ))」であることを、被災地の住民に突き付けられていることに対して向かうことをしなくてはならないのに、いまだに「被災者ですから」として、「被災地と言う絶望と被災者という幸福」を求めている。
 
 まあ被災県と宣伝して、「希望」という「変革」を「希望郷いわて」で実現しようとしているのだから。