階層化

http://sumisumi.cocolog-nifty.com/sumisumi/2011/07/windowsupdate-1.html
2011年7月 1日 (金)
WindowsUpdateの悲劇

省略
抜粋
>いいこと書いたつもりだったんだがなぁ,もう書かないだろう.

テーマは,
高橋源一郎氏の朝日のコラム「原発と社会構造」」 をネタに,
・労働者の階層化問題,
・地域間の階層化問題についてである.
気が向いたら,別の機会に書いてみるが,もう,同じ文章は書けない,と断言できる.

この1時間あまりの私の時間を失ったことに対して,名づけよう.

「WindowsUpdateの悲劇」

ーーー
書きたかったことの一部をメモする.
労働組合は,横の連帯が崩れ,企業単位になり,労使癒着によって,チェック機能の喪失がおこり,今回の原発事故の原因になっている,と木下武男氏はかいているそうだ.
・企業主義的統合による正規雇用労働者は,中間層として下請け労働者を管理する存在となった.被ばく量が多い現場では請負化を求めるようなことが起こる.それが原因の一つだというのである.
・私は,労働者の階層化,組合は正規雇用者のもの,というふうになったことは,組合の存在意義をおかしくしていると感ずる.それは自分が経験してきた職場でもおなじだった.
・組合は正規雇用者の立場・環境・給与をとにかく守り向上させるべく要求するための存在で,経営的な環境を真面目に見通しているとは思えなかった.
・ある職場では,経営環境が悪化する中では,自らが給与を下げることも視野にいれて,非正規雇用も含め,雇用自体を守ることを主張してもいいはずだったが,そんなことを真面目にやっているとは思えなかった.組合に非正規雇用の立場を守ろうとする発言が殆どみられない.横の連帯どころか,縦の連帯すらないのではないか.
・要するに,連帯して労働者全体を守るのではなく,自分の属する層が守られればいい,という身勝手な保身に過ぎないことになる.
・一方で私は,全員の雇用を守れなどと主張するつもりはない.
・実際には,局所的な層の待遇の維持を求め,仕事を非正規に押し付けようとし,自らが努力することがもったいないと考える労働者をも守っている.そして,そう言う者こそがこぞって組合に残ろうとしているように見える.その一方で非正規雇用は,守る側にいれようとしない.
・理想は,正しい評価によって,正しい待遇の格差を付け,より多くの「能力や努力に見合った雇用」を維持することこそが,正しい労働組合のあるべき姿だと思う.
・私自身は,「状況を考えて給与を下げることも考えては」とか「非正規をどうするのか」という事を言うが,自分たちの待遇ばかりを主張する人たちの言葉に辟易し,私は脱会した.
・私は思う.総中流化というのは,国内でありうるのか.肉体労働者なりも含め,どの程度の生活水準まで押し上げられるのか.資本や経営者だけでなく,中間層なる正規雇用者が取り過ぎれば,他の労働者はより低い水準しか保証されない.それを労働者層自身が認めるのか.
・実際の東北では,地元の安い労働力より,より安い外国人「研修生」が投入され,地域の雇用は一部奪われた.
・どこまでの人件費でどれだけコスト抑制になるのか,その各層の取り分とバランスはどの程度でどこまでコスト削減につながるのか,という点には興味がある.中間層,資本,経営の取り分をどこまで減らせば,どこまで競争力はつくのか.つかないのか.


 せっかくの文が消えてなくなってしまったのは惜しい。
 でも、これだけ書けるのは中身が違いすぎるということなんだなあ。はあ。
 労働運動や労働組合の変質によって、「連合」と「学者」の変質がもたらしたものの一つとして「デフレ継続」があったのではないかというのは、頭に付きまとう疑念であって、それが正しいことかどうか検証しえる頭は残念ながら持ち合わせていない。
 
> hahnela03 雨宮処凜さんたちの反貧困運動は、「無条件の生存の肯定」を掲げているという。「これは単なるお題目ではなく、具体的な現場で生まれ、新しい共同性が作り出しつつある思想「世界規模の貧乏強請」であり、現実なのだ 2011/07/01

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-61b0.html
『生活経済政策』7月号から

>新中間階級世帯をみると、共働きでは富裕層が3割近くに達するが、パート主婦ではなかなか富裕層に手が届かず、専業主婦ではかなり難しい。妻の収入の差がそのまま、世帯の経済的豊かさを決定しているのである。・・・新中間階級共働きは高学歴カップルの特権である。

となり、

>専業主婦の生活はつましい。・・・これはまさに、清貧とも呼ぶべき女性の生き方である。

という評価につながっていくのですね、

 リベラルな方達によって、「専業主婦」批判はあったのだけど、夫婦そろって「公務員」「教員」「大企業」という方達が攻撃していた「専業主婦」=「金銭を得ないことへの蔑視」というのは、「慎ましい」生き方=清貧批判であったのだけど、持てるものとなった方達がまた別の面では「労働組合の組合員」という立場で随分と保護されていたことによって生じた格差は放置されてきたのが、「自分だけは守られている」という「身勝手な保身」によって格差拡大が進んだことについては、どのように彼らは弁明するのだろう。「年越派遣村」というのが、「身勝手な保身」を非正規労働者側から訴えられたのを、責任を回避し、厚生労働省へ転嫁したことに過ぎなかったのではないかというのは、当時から感じていたことではあった。
 「労働者を守る」というのが、随分と寂しいものになったんだなあ。