日本型雇用の衰退と再発見

 マシナリさんによる日本型雇用の憂いについては、「日本死ね」という言葉を短絡的に並べる人達は向き合うことはないだろうと感じます。また、日本型雇用はそんなに悪しきものなのでしょうか。決してそんなに悲嘆的になるべきものではないと思うのです。ただ、ダイバーシティ(多様性)を唱えながら実際にはこれっぼっちも多様性なんて必要のない「型」におさまって貰いたいのが本音でしょう。

日本型雇用における管理者養成機能の衰退

本書は就活に焦点を当てているのであまり触れられていませんが、このような採用方法の違いは、就職後に会社で人材育成するか、就職までに(公的に)職業訓練を行うかという職業能力開発の在り方と密接に対応しているため、単に会社が横並びだとか怠慢だとか批判するだけでは的外れになるだけです。という職業能力開発の観点から見ると、日本型雇用慣行は広く「正規労働者という網」をかけて、その中から幹部候補生を育て上げていくという管理者養成機能こそが特徴とも言えそうです。

 日本型雇用とは、多様な賃金形態が共存するためには必要な制度であったのではないかと思うのです。賃金形態という視点からは日本型雇用はダイバーシティ社会を形成しやすくしていたのに、賃金比重が高く固定的な産業形態であるサービス業の拡大が、基本給に対する年齢給批判と密接に連動し、賃金形態全体が変動制の高い日本型雇用から利益が安定して計測しやすい(安定した配当を得やすい)仕組みへと変わるための「痛みを伴う改革」ということです。

 社内での人材育成は中小零細企業のもっとも不得手で弱点と言っても良いものです。それが、あまり表面に出ず日本経済が右肩上がりの経済成長できたのは、大企業経験者を取り込みながら、零れ落ちてきた人材の「背中を見て覚えた」と言って良いでしょう。この「背中を見て覚える」という日本型雇用が途切れ始めました。


リフレクティブ・マネジャー 一流はつねに内省する 中原淳/著 金井壽宏/著

はじめに(金井)
第1章 「上司拒否。」と言う前に
第2章 内省するマネジャー――持論を持つ・持論を棄てる
第3章 働く大人の学び――導管から対話へ
第4章 企業は「学び」をどう支えるのか
第5章 企業「外」人材育成
あとがきという名のリフレクション(中原)
やや長めでおせっかいなあとがき(金井)

 
 中原先生には、ポッセ等の関係者がわけのわからない因縁をつけてみたりと、「我こそは弱者の味方也」の方達にはあまり好まれないようです。本書は、2009年出版なので今から7年前の本ではありますが、日本の雇用環境の変化はそれほど無いということになります。

課長はこうして選ばれていた●中原(P21)

 第一章では、昭和61年(1986年)11月放送のNHK特集「課長はこうして選ばれるーあるハイテク企業の人事戦略」の話が出てきます。富士通の事例ですね。

光輝いていた課長の椅子●中原(P24)
 
 日本型雇用が最も多くの正社員を抱えていた時期でしょうか。現在の昇任試験が当たり前になる前の「家族の会社化(運動会や社内イベントへの参加。悪く言えば、個人や家族の企業への隷属)」が進んでいたと中原先生も指摘しています。また、日本型雇用にとって課長昇進が「成功のメルクマール(指標)」であり、イニシエーション(通過儀礼)であった。それは日本型雇用の「誰もが一度は目指すべき『地平』」だからこそ光り輝いていた。そして、「会社から、これだけはっきり道筋を示されれば、あとは会社が自分たちを守ってくれるのを信じて頑張ればいいってことですよね」と紹介しています。日本型雇用は会社がメルクマールを提示できていたことで成り立っていたのです。それがバブル崩壊で崩れ、「見通しのきかない世界」「ゴールの見えない世界」が果てしなく続くことに成ります。「失われた20年」ですね。

それって、課長のせいですか?●中原(P28)

 中原先生も困惑する「課長」への場当たり的な企業の依頼は、日本型雇用における役員の無責任と責任転嫁と指摘しています。問題の原因は「役員以上のマネジメントの問題」と。
 日本型雇用が問題にされるより、役員以上の能力と責任に問題があるのに改善しないで放置プレーを続けている。「それって、課長のせいですか?」

「誰も行きたくないカラオケ」●中原(P31)

6割の人が「忘年会の参加強要はパワハラ」と感じていることが判明!「参加不参加の自由を認める」ことが大切
 
 現在はアルハラを含め何でもハラスメントで括るのが好きな方達が居ます。でも上司も行きたくないんですよ。日本型雇用の「仕事は俺の背中を見ておぼえろ」がバブル崩壊による採用減もあり、氷河期世代と平成世代の断裂は、双方ともに「教えることもできないし、教えられたことも無い世代同志」がそれでもコミュニケーションをなんとか作ろうと「切ない努力」をする「報われない時間」を共有しているのです。 
 マシナリさんはそれを、

大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行

 と、指摘しています。

「上司拒否。」●中原(P36)
 
 中原先生は部下のこのようなメンタリティをそのような名付けてます。教育学者
 日本型雇用における「仕事は俺の背中を見ておぼえろ」を嫌う人達は別の名称で言います「泥棒伝承システム」と。フィリップ・ジャクソンの「ヒドゥンカリキュラム」を例に、上司は部下に「マネジャーとしてのつらさ」を部下たちに無意識かつ暗黙のうちに伝達しているのではないかとしています。


 非科学的で、洗練されていない泥臭い。欧米での教育・訓練は素晴らしいとする方達です。
 「忘年会拒否。」もそうですが、リベラルな方達はコミュニケーションをする気はないくせに「共同体」「絆」「連携」などは好んで使います。自分にとって都合の良い「地縁・血縁・職縁・学縁」に対しては敏感です。これが新自由主義の拠り所の一つとなっていますが、ダイバーシティとは、あくまでも自分にとって利益があるかないかがメルクマールとなります。「ダイバーシティは儲かる」ですね。

 自らが「援助する・援助される」「育てる・育てられる」の連鎖からは逃れられません。また、個人なのか、組織の問題なのかをすり替えてきた日本型雇用批判というものを考えさせてくれます。

第2章 内省するマネジャー――持論を持つ・持論を棄てる

人は修羅場でしか学べないのか●中原(P166)

 修羅場について海老原さんは、範囲を示し乗り越えられるものを設定するとしています。
 中原先生は、「終わりのない修羅場(ハードシップ)」は「日常」であり、「修羅場で変われ」と語りかけるのは酷ではないか、時に「越境すること(社外での学習)」が必要ではないかとしています。

第3章 働く大人の学び――導管から対話へ

正統的周辺参加●中原(P181)

 ジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーの提唱した「正統的周辺参加」はそれまでの「個人としての学習効果をいかに組織として仕事に結び付けるか」という問題設定を否定し、この問題の前提にあった「学習-仕事」「個人-組織」といった二項対立的な認識に変更を迫った事例を出しています。

 二人か着目したのは徒弟制的な共同体において、新人がどのようにして一人前になっていくのかというプロセス。二人の共著「状況に埋め込まれた学習」には、正統的周辺参加に相当するいくつかの事例の内「リベリアの仕立屋」を書いています。
 「ワーク」と「ラーニング」を対立させて考えてはいけないとしています。

(P183)

 共同体の実践活動に参加するときに、学習者が意識しているのは、知識やスキルの取得などシステマティックに細分化された目的ではなく、トータルな意味での実践活動における行為の熟練だ。傍目には「新人が知識を身につけた」とか、「新人が重要な問題点に気づいた」というふうに見えても、学習する本人は「いい仕事をしよう」と思っているだけで、「今、自分は学習している」とは考えていない。

 日本型雇用の「仕事は俺の背中を見ておぼえろ」は「泥棒伝承システム」と揶揄されますが、中原先生は「ラーニング」でけでも「ワーク」だけでもない。「ラーニングワーク(学びのきっかけに満ちた仕事)」なのだ。と、しています。自分にとっては再発見でした。日本型雇用における教育・訓練批判でシステマティックで洗練されていると妄信する方達にとっては、欧米型雇用も元々は徒弟制の職業組合だったわけですから、「日本型雇用の管理者養成機能の衰退」とは、そもそも何でも日本的なものを否定する活動とも言えるわけで、十分に「いいとこどり」ができると感じます。

(P187)

 たしかに、徒弟制の名の下に、閉鎖的な人間関係の中で、シゴキが正当化されたりしたことがなかったわけではない。しかし、だからといって、徒弟制を「前近代的」「封建的」と決めつけてしまうと、この仕組みがもっている豊かな可能性を見失ってしまう。近年の学習研究者は、人々が効果的に学んでいる場では、あらゆる所で徒弟制が作動していると看破している。企業や学校など、およそ知識の伝授・獲得がなされている組織には、徒弟制の仕組みが見いだせる。責められるべきは、徒弟制ではなく、徒弟制の誤解の果てに生み出される権威主義や閉鎖性であることを理解して欲しい。

 日本型雇用における「無限定雇用」は組織の硬直性のため「配置転換」「転勤」が言われますが、中原先生の指摘から「閉鎖的な人間関係」からの解放や権威主義(無謀な上司)からの解放ということから、「仕事は俺の背中を見ておぼえろ」という「泥棒伝承システム」の「管理者養成機能」は、「正統的周辺参加」そのものであり、非常に優れた一面をもっていたのではないかと考えさせられました。
 
 あるコンサルタントは、ドーキンスの「ミーム(利己的な遺伝子)」論を用いて、日本型雇用における技術伝承を説明しました。ある種の「波動理論」のような印象を受けたので、なかなかしっくりくるものではなかったのです。

職場を実践共同体に○金井(P188)

 「正統的周辺参加」はブルーカラーに限定するものではなく、あらゆる職場に見られる。
 メンバーが相互に先生役になれるような職場をつくり、職場そのものを学習の場にする「実践共同体」とし、職場の全員が実践を通じて切磋琢磨し合い、学び合えるコミュニティをつくること。
 
 年末年始の忘年会・新年会に参加したくないというのは、職場環境が悪いから参加したくないというのが本音であって、ハラスメントは理屈付けでしょう。その職場はコミュニティではないと言う事なんです。
 
エージェンティックとコミューナル○金井(P219)
 

キリスト教圏でエージェンティックと言うと、究極的には神のエージェントを意味する。布教活動は、神の言葉を伝えるのがミッションであるし、物理学や数学は、もとは神のエージェントとなって、神の作品を知ることが目的だった。また、ビジネスの世界で事業を成功させようと努力するのも神の声に従うことであり、エージェントとしての主体性を発揮することだとそれる。

 ここを読んだときに頭に浮かんだのは「経済学」です。リフレ派の経済学者・エコノミスト等の行動は正にこの通り。

(P220)

 けれども、人々の営みがすべてエージェンティックだと、人間は誰かの手先となって突き動かされているだけということになる。そうならないために、人々の活動においては、大勢の人達とのつながりや関係性、つまりコミューナルなものが生まれる。エージェンティックが「神の代理人」だとしたらコミューナルは仏教でいうところの「檀家の集い」のようなものだ。

 リフレ派のベーシック・インカムは、「人々の営みがすべてエージェンティック」なものにする行為です。「神の代理人」である経済学者の言うとおりに動かなくてはならなくなります。なかなか怖い示唆です。

 エージェンティックな「神の代理人」はやがて自らが神であるかのような不遜な発想に憑りつかれ、その役割に没頭する危険性があるそうです。田中秀臣飯田泰之暗黒卿等を見ていると確かに指摘される通りです。最悪のマネジメントと言えるでしょう。

第5章 企業「外」人材育成

 中原先生は2009年で「企業内人材育成」は色あせる日は近い。としています。震災前からさかんに異業種交流という「企業を越境することで学ぶ大人」が増えています。ただ、なかなか地方にはそのような機会が少なくその理由も理解できない状態にあるのも事実です。
 都市部で「企業を越境することで学ぶ大人」が増える一方で、様々な減少が止まらない地方の中はありますが、日本型雇用は衰退ではなく新たな形となって、しぶとく生き続けるような気がしました。