津波被災の記録132

 2年8ヶ月が過ぎました。復旧・復興は進んでいるものの失ったインフラを建設した時間など無かったかのように、「復興の遅れ」は宣伝され続けています。まるで、積木細工のように出来るわけもなく「生産性の向上」が進んだ「土木工事」と違い、人的資源に頼らざるを得ない「建築工事」では、「復旧・復興」が違うのです。その違いすら混同させているのが、リフレ派の「土建供給制約論」の悪質なところではあります。
 

大槌復興へ民意もっと 3日、住民有志が「議論の場」

 震災から2年7カ月が過ぎ、行政主導で進む復興まちづくり事業に、住民の側から見直しを求める動きが出ている。大槌町釜石市の有志で組織する住民まちづくり運営委員会(阿部敬一委員長)は3日、同町で住民集会「まちづくり文化祭」を開く。沿岸被災地は復興事業の加速が叫ばれる一方、民意の反映が不十分との不満がくすぶり、同町では巨大防潮堤の計画にも議論がある。住民主導による復興計画の見直しにつながるか注目される。
 「役場主催の会議では答えが返ってこない」「自分たちのまちづくりへの覚悟を示すときだ」。大槌町内で10月下旬に開かれた実行委の会合。メンバーの高校生や会社経営者、漁業者、町議ら、若手を中心に幅広い年齢層、肩書を持つ15人が、熱い議論を交わした。

14メートル防潮堤に疑問の声も 大槌・復興住民会議

同運営委の阿部敬一委員長が「知らない人たちが町の将来を決めるのはおかしい。観客席で傍観しているのではなく、僕らが主体となってみんなの声を聞いていきたい」とあいさつした。
 安倍昭恵首相夫人らゲストも加え、産業や福祉、観光など今後の町づくりについて議論。町中心部に予定される防潮堤建設の是非についても活発に意見が交わされた。新おおつち漁協の阿部力(つとむ)組合長代行は「個人的な意見だが、漁業者の立場からは(14・5メートルの)防潮堤に必要性を見いだせない。見直しを検討できる機会があれば足を運びたい」と訴えた。

 隣町のことではありますが、安倍昭恵首相夫人が「防潮堤はいらないのではないか」「夫(首相)に直接伝えます」ということを言ったことにより、大槌町は混乱を深めることになっております。メデイアでは大きく取上げられることはなかったようですが、「被災地の想いを伝える」という直接的な直談判や直訴を実践するのは、どこぞの国会議員とその支持者と変わらない。ことは、政治システムそのものを否定することを、安倍昭恵首相夫人が行っていることも同程度には批判しておかないといけないのだろう。
 このあたりは、内閣府官僚の指摘が正しいと思われる。そうしないと、韓流が好きでその真似事のような感覚であったとしても、日本の統治システムを否定し朝鮮王朝方式を実践する安倍昭恵首相夫人には被災地訪問はありまよろしくないのではないかと感じた。


原武史『直訴と王権』を読んで、李氏朝鮮王朝では、18世紀に直訴が公認、頻繁に行われていたことを知る。

18世紀の李氏朝鮮の英祖、正祖の時代は、王が旅行にでたときに、文書を受け取ったり、銅鑼をたたいて口頭で訴えるといった行為が通常のように行われていた。(p52,p68)

 儒教の教えを前提にした、民衆の状況を知るという発想と、朝鮮に堅固だった官僚組織をすっとばして民衆と接することにより、王権を強めるという要素があったらしい。

  直訴が抱える問題は、歴史的にみると、その政権が民衆の支持を受け続ける必要があるか、というそもそも論によって、大きく主権者の意識にへだたりがあることがわかる。

 さらに、現代から振り返ってみると、主権者に直接無礼を承知で訴える以前に、通常の法律制度によって、意見を実現するという、法治国家の仕組みが整備されているかどうか、もし整備されているのであれば、それを使わないことは法治国家の正統性を脅かすという危険性を考える必要がある。

 具体的に日本の国会議員に即していえば、国会議員は、日本の憲法を尊重し、法律を遵守して、自分の主張と意見を同じくする人と政党を組織し、国権の最高機関において、意見を反映させる立場をもっており、もっといえば、法治国家のそういうシステムを遵守することが自分の存在根拠である。そういう努力も手続きもせずに、直訴に走ることは、憲法と法律に基づく統治機構に対して弓をひいていることになるのではないか。

 安倍昭恵首相夫人の「防潮堤はいらないのではないか」が影響しているかわかりませんが、国及び自民党への陳情では来年度(平成26年度)の予算は確保したが、「翌年度以降は復興財源が無い」のでわからない。という回答が多かったことに被災地からの陳情団は衝撃を受けたそうです。「復興がすすまない」のは「被災地の努力が足りないからだ。そんなところには予算を付ける必要が無い。」「いや予算が余っているから基金に返すのだから復興予算は必要ないんだろう。」、という声が多いそうです。東京都民等はシビアですね。ですから、「土建供給制約」が喧伝されるほど、財務省は「出来ないものは、出来んままでいい。できる程度の予算だけくれてやる。あとは必要ない。」となるのです。

 「復興予算が無くなる」原因の一つは、消費税(8%→10%)の時点での復興特別所得税及び復興特別住民税廃止が考えられていることがあると思われます。リフレ派や共産党による復興法人税廃止に対する賛同と批判は、巡り巡って「被災地復興」の最大の障害となってしまったようです。危惧はしていたんです。代償はどこかで払わされるだろう、ということは感じてましたから。
 また、軽減税率を要求するメディアにとっても、消費税(8%→10%)で被災地への無駄な予算批判が正当化されるわけですから、何が何でもやって貰いたいところでしょう。なお、軽減税率を実施した場合(範囲は限定しない)消費税1%(約2.5〜7兆円)の税収不足になります。リフレ派の消費税1%分を抑制する考えは根底は同じです。つまり、共産党による「復興特別所得税及び住民税」廃止要求によって、「被災地復興は消滅」します。リフレ派の批判どおり「財政政策(公共投資)」は縮小し万々歳です。でも「被災地復興は消滅」します。被災地で生きのこるためこのような虐待に耐えねばなりません。
 

 被災地から出て行って貰いたいかたは、簡単にコーディネイトと言う時点で、自分達が神の声を聴き伝える存在として在りたいとするのは間違っている。

藤沢烈@retz

大槌で、住民の側から復興計画の見直しを求める動きが出ていると報じられています。住民と行政の間の建設的なコーディネイトが求められます。
『大槌復興へ民意もっと 3日、住民有志が「議論の場」』
http://ow.ly/qpUD7

 被災地における、外部から介入(支援・補助金等)の在り方については、今後他の自治体においても平時・災害時の対応は違うのは当然ですが、それによって、自治体における公務員という住民にとってはフィルター機能が損なわれてはなりません。むしろより強固にする必要があるのです。キャッシュ・フォー・ワーク等にしてもそれによって、自治機能の低下をもたらすことについては、慎重に検討をすることが求められます。

 被災地復興が遅れている最大の原因は、被災者自身にもあります。その批判は避けてはならないし、外部の影響もまた大きいことも自覚しないと、結局はなにも進まないことになります。

Jinno Mikinari @jin0210
私は不在にしていたが、今日の午後、また東京のフリーランスコンサルタントがやって来て、「私が理想の大槌町の絵を描いてあげたから、そのとおり町を作りなさい」系の話をしていったらしい。ここは「貴方の理想、実現します」な箱庭実験場じゃないっつーの。復興の邪魔するの、ホント辞めて欲しい。

Jinno Mikinari @jin0210
まあ、復興の進み具合については、あくまで個人レベルで入手できている情報を元にした勝手な判断でしかないのだが。ちなみに、この町の「産業の復興」をスピードアップしていく上で、最大の障害となっているのは、間違いなく用地取得です。まあ、某市に比べればまだ良いのでしょうが。

Jinno Mikinari @jin0210
そういう相手にホイホイ騙されて、一緒にやってくる地元の人も問題だよ。「雇用を生むから」ってだけの理由で、廃プラ処理施設だのなんだのみたいな迷惑施設の計画を持ち込んで来る。そのくせ、事業の候補地はちゃっかり「自分の生まれた地区以外」になってるんだな。

Jinno Mikinari @jin0210
「雇用を生めば何でもいい」なら、原発でも廃プラ処理施設でも、何でも受け入れたらいいじゃないか。それで「あなた方が理想とする大槌」が実現できるなら。ただ、私が知る範囲では、自分の家の隣に原発や廃プラ処理施設が出来ることを喜ぶ人はいないんじゃないかと思うんだけど。

Jinno Mikinari @jin0210
ちゃんとした民間企業が、自社事業として自己資本を投下して事業展開を図ってくださるのであれば大歓迎だ。だが、地元の人間を焚きつけて暴れて、補助金=税金じゃんじゃん引っ張って、設備プラント売りつけたりコンサル料せしめて、あとは野となれ山となれ、ってんじゃ、お隣の某NPOと大差ないだろ

Jinno Mikinari @jin0210
今の被災地は、この手の無責任な話が多すぎる。そして、これは四月からだが、この手の話への応対に相当労力割かれてる。外から来た人が、「町に新たに定住して頑張ろう!」ってのとは、全然話が違うんだよ。

Jinno Mikinari @jin0210
地元の方々も、厳しい言い方になりますが、もう少し警戒感を持って欲しい。他所者の「コンサル」「学者」がいきなり町にやって来て、「私はここを産業エリアにすべきだと思うの」「なんで私の言うとおりにしないの」なんて話を延々と繰り返す。そのせいで役場職員が忙殺される。違和感、感じませんか?

Jinno Mikinari @jin0210
町のどこに商店街を作るかとか、産業エリアをどこにするかとか、そういうのって根本的には地元の人たちで決めるべき話でしょ。学者やコンサル、それに僕ら応援職員は、あくまでそれを実現するための補助的な役割にすぎないはず。

Jinno Mikinari @jin0210
もちろん地元の人って言っても、100人いれば100個の意見があるから難しい部分もある。だが少なくとも、町に縁もゆかりも無いコンサルにいきなり役場職員が呼びつけられて、「私が考える理想の町は〜」とか、「なんでここを産業エリアにしないんだ」とか言われる筋合いない。


 「被災地復興」における「俺様の理想とする復興」「復興が遅れている」もそうですが「規制改革」「公務員改革」等における批判は「プロテスタンティズム」の流れを組むものです。ある程度スピリチュアルな部分とも繋がりやすい傾向があると言えるでしょう。
 リベサヨが理想として称揚する「フェアトレード」も中間流通業者というフィルターの排除によるためWIN-WINの関係が「信者の思いはイコール神の思い」に陥ります。生産者と消費者の直接的取引を称揚する「NPOファンド」も同様なのです。
 ネオリベも同様に財務省批判における「歳出権」なるもの創りだし、財務省を排除しようとするのも、内閣府(首相)と直接的な支援者への利益配分を歪める存在の排除要求であるとみるのが自然なのです。
 





ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)

ルネサンスとは何であったのか

第二章 ローマで考える
P181〜

 そしてこの二人は、中世の指導的考え方かであったキリスト教によっても人間性はいっこうに改善されず、人間世界にはあいも変わらず悪がはびこっているが、それはなぜなのか、また、この現状を打開する道はどこに求めるべきか、という問題と真剣に取り組んだ点でも同じであったのです。

 そこで、イタリア人のマキアヴェッリは、次のように考える。
 一千年以上もの長きにわたって指導理念でありつづけたキリスト教によっても人間性は改善されなかったのだから、不変であるのが人間性と考えるべきである、ゆえに改善の道も人間のあるべき姿ではなく、現にある姿を直視したところに切り開かれてこそ効果も期待できる、と。

 一方、ドイツ人のルターの考えは、簡単にまとめれば次のようになります。
 一千年余りのキリスト教社会が人間性の改善に役立たなかったのは、キリスト(つまり神)と信徒の間に聖職者階級が介在したからであり、キリストの教えが人間性の改善に役立たなかったのではなく、堕落した聖職者階級が介在したがために役立てなかったのだ、それゆえに改善の道も、聖職者階級を撤廃し、神と人間が直接に対し合うところに求められるべきである、と。

 カトリック教会とは、ローマ法王を頂点として枢機卿大司教、司教、司祭、修道士からなる聖職者階級が、神と信徒の間に介在する組織です。経典(つまり聖書)を信徒に説き教えるのが、聖職者階級の存在理由であり、ルターの提唱したプロテスタンティズムとは、この種のフィルターは不必要としたところに特質があった。
 マキアヴェッリもその一人であるイタリアのルネサンス人は、聖職者階級の世俗化に盲であったのではない。ただし、地理的にも十字軍運動をより冷徹に見きわめることのできた彼らは、フィルターが介在しない場合の危険性にもより鋭敏であったのです。

 ほんとうのところは、神は何も言わない。神が何か言ったとは、信者がそう思ったから、にすぎない。宗教のプロである聖職者階級が間に存在していればフィルターを通すか通さないかを適当に判断するから、信者が神の声を聴いたなどというような事態は起こりえない。ところが、フィルターなしだとそれが起こりやすい。神と信者が直接に対し合うということは、信者の思いはイコール神の思い、になりやすいからです。
 十字軍とはそもそも、人口が増加したヨーロッパに増えた人口を養って行ける余地がなく、食べていけなくなった人々が武器を手にどっとパレスティーナにくり出したのが発端ですが、単なる難民では意気が上がらない。このような場合は必ず理論武装が求められるもので、宗教はこのようなことにはすこぶる適しているときている。ヨーロッパの難民はそれを、聖地奪還に求めたのです。キリスト教の聖地を異教徒イスラムの手からから奪回するのは神が求めていることであり、その神の意に従うのがキリスト教徒のつとめである、と。この十字軍のスローガンは、「神がそれを望んでおられる」であったのでした。聖職者階級が介在してさえ、このようなことは過去に起った。それさえも介在しなくなったら信者の想いはイコール神の想い、はそれこそ放任状態になる。マキアヴェッリは、悪を廃絶した後に生ずるより危険度の高い大悪よりも、許容限度の悪を残すことによって大悪を阻止するほうを選んだのです。
 これは何も、マキアヴェッリ一人に限った考えではありません。ルネサンス時代の知識人の教会批判は激烈ですが、同時代人の一人であったエラスムスにも見られるように、聖職者階級の批判はしてもその廃絶は唱えていない。この人々が、ルターよりは穏健であったのではないのです。ルターに比べればこの人々は、人間の善意なるものに全幅の信頼をおくことができなかったのです。マキアヴェッリは、これこそが人間性の真実であるとして、ユリウス・カエサルの次の言葉を引用しています。

----どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものであった----

 動機良ければすべて良し、で突き進んだ人々が起こしたのが宗教改革ではなかったか、と私は思っています。とくに、ルターから五百年が過ぎた今の時代になっても、人間性はいっこうに改善されていない現状を見ればなおのこと。