津波被災の記録21

 4月30日に第二回目の給与支払い。
 社員の大半は次の日から休み。この数年間は、社員と協力会社の人達と慰安旅行に行っていたことを思い出すと、いい日々を過ごせてきたのだと振り返る。今後の再建の道筋は厳しいなんてものではないだろう。電気関係の社長さんも仮設住宅の電気工事に社員を出しているけれど、単価が合わない(会社の負担が大きく、既存の雇用が維持できない)ことを嘆いていた。労働者の支持があるとの触れ込みの政権だけど、それは知識階級労働者と大企業労働者に限っての話。中小零細や自営業者に酷薄すぎる。
 連合が消費税賛成に転換したのは、効率よく中小零細及び自営業者を弱体化させ易いことで、自分達だけが利益を受けることに納得したからなんだろうけどさ。
 この辺りと、PFI事業による民間金融資本を利用の推進は表裏一体の話。都市リベ(ネオリベ・リベサヨ)にとって、どのビジネスモデルが利益を享受するかというシステムで双方とも動いている。それが大多数の意見として集約されている以上、「リフレ」は起こり得ない。リフレ=公共投資ということを否定することで、日本型雇用(大企業・公務員型)というものではなく、国内の内需循環システムが、中小零細と自営業者に向けて動いている流れを大企業へ傾かせることこそが、日本型雇用否定の核心部分なんだから。働き方以前に働く場所を限定(集約)することが主眼なんだもの。

(追記)
 5月5日自宅周辺の岸壁で遺体を親族が発見し、海上保安部へ通報。遺族の方にとっては、足一本、指一本でも見つかることを願って避難所から離れないでいる人々が大半だから、誰かにとっては区切りがやっとつけることができる。
 津波や災害の記録としての石碑や街道の在り方については、日本人のコミュニティズムの源泉はメメントモリ(死を思え)なんだなとつくづく感じる。そして有縁をも。
 無縁社会を取り上げて反響があった際、怪訝に感じていたものとは、都市とは「生」の論理、地方とは「死」の論理の対立なんだ。「生」しか見れない価値観では効率を優先しやすくなるのは必然だろう、常に「死」過去から現在に至るものが様々な祭礼と社会とともにあるからこそ無駄と思えるものであっても容易に切断と取捨はできないのだ。日本人の源泉としてのコミュニティズムを「新しい公共」に置換しようとすることが、結局は階級の固定化と郷愁(3丁目の夕日的)に起居しているのは、「希望学」でも取り上げていた、1に大企業の所長、2に大企業労働組合委員長、3に市長という、企業城下町での序列への回帰運動が「全共闘ルネサンス」「政権交代すればよくなる」というものの本質なんだという風には考えてきたけど、ここへ来ての東電叩きと日銀叩きを含めた公的セクター叩きが一般庶民感情とは可なりかい離しているんだな。